最近はテロで物騒な世の中になりました。と言ってもこれは今に始まったことではなく、遡れば2001年(平成13年)9月11日にアメリカのニューヨークその他で起きた同時多発テロ事件が極め付きの発端だと言えます。
自然災害とテロを比べるのは次元が異なるので、両者を同一視することはナンセンスですが、日本の地下鉄サリン事件を見ても、この種のテロでは宗教が大きな比重を占めています。
ここで宗教を論じようというのではなく、言いたいのは、表現の自由・言論の自由、そして、フランスの新聞社「シャルリー・エブド」へのテロ襲撃事件のあとで、フランスを中心におこなわれた大規模な国際デモです。
まず、表現の自由・言論の自由について言えるのは、その度合いが大切だと思います。
言いたいことを言う、表現したいことを表現する。
これには不文律として課せられた度合いがあるのではないでしょうか。
この世の中には数多くの人がいますが、その一人ひとりには属性があります。
つまり、個々の人は個々の考え方を持っています。
その考え方の最大公約数が不文律に通じるとすれば、言ってはいけないこと、表現しない方が良いことが不文律になり、それが一般常識になるのでしょう。
私の仕事では、お客様の立場で最良のソリューションを見つけ出すのがベストですが、もしそうであっても、それをストレートに表現できないことが無いとは言い切れません。
予算が限られている場合、例えば理想的には5kWhの太陽光発電システムがいいのですが、それではお客様には無理だとなると、出力を下げたシステムにしなければなりません。
そのような時には、ご希望の電力を確保するには、このシステムだが、予算との兼ね合いからはこちらのシステムになる、ということを説明する時にお客様の立場からのスタンスが重要になります。
ちょっとした言葉使い、説明の仕方次第で、お客様のご理解を気持ちよく得られるか、そうでないかが分かれます。実に言葉での表現は難しいのです。
次に、話題はデモになります。
人間の声は一人ではそれほど大きくはありません。しかし、これが何万、何十万、そして今回のテロに対するデモでは370万人の参加者とも報じられています。
これはまさに巨大なエネルギーと言えるでしょう。
そうです、小さな声でもひとつにまとまれば大きな声になります。
これを私の仕事がらみで言いますと、太陽光発電も同じです。
1枚の太陽光パネルに組み込まれている一つひとつの太陽電池は小さな電気ですが、パネルになれば、かなりの量の電気になり、このパネルを組み合わせたアレイになれば、ひとつの家屋が必要とする電気以上になります。
その発展形がミニソーラー・メガソーラー、そしてギガソーラーになります。
フランスの国際規模デモと太陽光発電をリンクさせるのは、いささか場違いかも知れませんが、一つひとつの集合体が大きな力になるという点では同じです。住宅向けの太陽光発電システムがひとつ、また一つと普及することが、トータルな面から見れば大きな電力になるのです。